【新解釈】心・技・体ではなく、体・心・技

 

皆さんは「心・技・体」という言葉をご存知でしょうか。
 

元々は武道の世界の言葉のようですが、最近はスポーツやビジネスなどの世界でも使われる言葉です。

 

精神と技術と身体がそれぞれ、高い水準で満たされて初めて1流である。

 

強靭な精神だけ身につけても1流にはなれず、
卓越した技術だけ身につけても1流にはなれず、
頑丈な身体だけ身につけても1流にはなれず、

 

その3要素がしっかりと満たされることによって成長がある、

 

  • 精神
  • 技術
  • 身体

 

の3要素の関連性を重んじる素敵な言葉ですね。

 

このブログでは、主に身体についてお話しすることが多いですが、できれば、皆さんにも体だけではなく、「心・技・体」の3要素全てを満たし、より充実した生活を手に入れていただきたいです。

 

心・技・体は間違っている?

 

さて、本日はそんな「心・技・体」という言葉の新しい解釈についてお話しして行きます。

 

実を言うと、

これは僕が考えたというわけではなく、とある世界チャンピオンを輩出したボクシングジムのトレーナーの受け売りなのですが、

 

僕はこの言葉を初めて聞いた時、「確かに!」と衝撃を受けました。

(僕の記憶を元に書くので細かいニュアンスは違うと思いますが)

 

 

「心・技・体という言葉は意味は正しいが

順序が違う、まずは健全な身体を鍛えないと

健全な精神は身につかない。

 

そして心身ともに充実していないと

本物の技術は身につかない。

 

その上、心身が充実していないのに

技術から身につけようとする人が

多いが、それでは何も身につかない。」

 

 

つまり「心・技・体」という言葉を体型立てると、体→心→技の順番で鍛えていくと良いということですね。

(良いというよりそうでないと出来ない)

 

「左手は添えるだけ」感覚

 

実際にスポーツなどの経験をされた方は分かると思いますが、全く基礎体力がないのに、ものすごい決定率の高いシュートを習得することはできないですよね。

 

例えばスラムダンクの桜木花道も、初めのうちはマネージャーの彩子さんに言われてずーっと体育館の隅でドリブル練習しかさせてもらえなかったじゃないですか。

 

それは基礎的な体の動き(身体)と退屈な反復練習を実直にこなす精神(心)がその時の彼には技術より先に必要であったということです。

 

ちなみに花道はその後、合宿に置いてけぼりを喰らい、1週間でシュート2万本という課題を一人寂しく体育館でこなすことになります。

 

そこで1週間の間、他の練習は一切せず、無の境地でひたすらシュートのみに没頭し生まれたのが、かの有名な名言「左手は添えるだけ」です。

 

このたった一言に集約された「左手は添えるだけ」というバスケ界では基本中の基本の “技” ですが、

 

そのたった一言の “技” を実践に落とし込むために、彼はひたすら体力と基礎的な体の動き(身体)を磨き、そして退屈で苦痛の多い反復練習を経て精神(心)を鍛えてきたのです。

 

「左手は添えるだけ」というたった一言の言葉の意味を理解するだけなら、ほとんどの人は10秒もあればできると思います。

 

それ自体を理解することは非常に簡単ですから。

 

僕だってバスケの経験は体育の授業程度でしかありませんが、言葉の意味は理解するだけならできます。

 

ですが、これを実践に落とし込み、活用できる段階まで持ってくることは、ある一定ラインの身体と精神が伴っていないと不可能であるということです。

 

このように言葉の意味自体を理解するのは簡単ですが、身体も精神も伴わないのであれば、折角の技術も意味がありません。

 

なぜなら、理解はしていてもその技術は使えないものですからね。

 

それはその技術が全く実用的ではないことを意味します。

 

つまり重要なのは理解ではなく、

 

その技術を実践に落とし込み、活用できるところまで持っていくことです。

 

「分かる」と「できる」は全く別物だと言い換えても良いでしょう。

 

仮に花道が基礎体力もないのにも関わらず、シュートが習得できたとしても、試合のチャンスの場面やピンチの場面で体力が切れてヘロヘロの状態では、そのシュートを決めることはできないでしょう。

 

そして、

「あれだけの地獄の特訓をクリアしたんだ、俺ならできる!」という自信(精神・心)がなければ、試合終盤、最後の最後の体力も底をつきかけている土壇場でシュートを決めることはできません。

 

これは “身体と精神” という土台があって初めて技術が活かされているという状態ですね。

 

花道の様に学生の間は教師や親をはじめとした周りの様々な人のおかけで “土台がないのに技術を求めてしまう状況” は避けやすいです。

 

若い内は本人も素直ですからね、スポンジの様に色々なことを柔軟に学び、吸収できるでしょう。

 

花道の場合は彩子先輩とゴリ、安西先生たちのおかけで “身体と精神” の土台の上に技術が修められていましたね。

 

ですが、問題は僕たちの様な大人の場合です。

 

僕ら人間は年々歳を重ねていくにつれて謙虚さを忘れ、「そんなことより早くテクニックを教えてくれよ!」と土台が無いのに(役に立てることのできない)技術を求める様になります。

 

キャリアを積めば、それなりの立場についたり、子供がいれば親になったりしていくため、少しずつ他者から基礎的なことを実直に学ぶ姿勢を無くしてしまうのです。

 

これはある程度は仕方のないことですが、本当の意味での成長を求めるのであれば決して忘れてはいけない姿勢ですよね。

 

もちろん、早く実が欲しい気持ちは分かりますが(僕だって簡単に手に入るなら欲しいですもん、、)然るべきプロセスを経なければ、手に入るものも手に入らない上、最悪の場合、“理解” しかできていないものを “できる” と勘違いしてしまうことすらあります。

 

できれば、そんな悲しい勘違いはしたくないですよね。

 

技術だけを優先してしまうと、、、

 

では、“身体と精神” が伴わない場合、技術はどうなるのかというと、

 

 

・体力への負荷が低い時のみ技術が発揮される。

 

例:試合の前半、練習の初め、

 調子の良い時、体力が余っている時

 

・精神の負荷が低い時のみ技術が発揮される。

 

例:試合で優勢な時、練習の時、

 プレッシャーがかからない時

 

 

となってしまうのです。

 

つまり、重要な時には役に立たない技術になるということですね。

 

ほとんどの場合、なにか追い込まれた際、辛い時、緊急事態、のような時にも活かせないと技術の意味合いは半減してしまいます。

 

スポーツなら、

プレッシャーがかかる場面、

劣勢の場面、

残り時間が迫っている場面、

 

こんな時にこそ喉から手が出るほど、技術の活用が必要とされます。

 

これはスポーツだけでなく、ビジネスや恋愛など、ありとあらゆる場面で同じことが言えますね。

 

まとめ

 

桜木花道のような、体格も良く、快活な若者ならば元々ある程度の身体性を身につけていますが、僕ら現代の社会人の場合、多くの人はそもそも技術云々、マインド(精神)云々の前に身体が伴っていません。

 

というか、花道のような恵まれた体格の人間でも活躍できるプレイヤーになるまでは基礎的な体力を身につける鍛錬を積むことが必要だったんですから、普通の体格の社会人なら言わずもがな。

 

要するに、

 

「身体もできていないんだから精神や技術は限りなく身につきにくいし、当然活用もできないですよ。」 ってことをこのトレーナーさんは言いたかったのでしょう。

 

どんな世界でも何かの道を突き詰めた人の言うことは学びになりますね。

 

これは逆説的に捉えると、心身ともに充実していれば “技” を習得することが容易になる、ということでもあります。

 

“技” というと花道のシュートの様にフィジカルなテクニックを想像する方もいるかもしれませんが、そんなことはないんですよ。

 

例えば、

 

何か資格の勉強をしたり、

読書でも構いませんし、

お料理の技術とか、

僕の場合はギターが趣味ですのでギターのテクニックとか(あ、これはフィジカルなテクニックですね)

ライターとしての文章力とか、

 

心身ともに充実していれば、様々な技術習得を効率的に促進してくれる土台になるのです。

 

こうやって文章にすると至極当然のことですが、僕たちはそれを忘れがちです。

 

ですから、皆さん各々成し遂げたいことが沢山あることと思いますが、まずは焦らず、身体から充実させていきましょう。

 

 

そのためには

 

  • 食事
  • 運動
  • 睡眠

 

を改善することが一番です。

 

 

そしてその中でもまずは食事!

 

身体に悪いものを摂取し続けていたら、運動をやる気にもならないですし、睡眠も質が低くなり、安定しにくいですからね。

 

まずは小さな一歩ですが、急がず、焦らず、正しい食事の積み重ねがひいては『体・心・技』の充実に繋がりますよ。

 

ちょっとした食生活の改善が日々の生活が豊かにすると思うと、いつもの食事もより楽しめると感じませんか。

 

そういった意識を持って、日々の生活を向上させてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

それでは。

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